72歳のハーモニー
読売新聞に連載された成田市で活躍されている男声合唱団「北総エコー」の記事です!
声出る限り活動模索
昭和が終わり、平成、令和と時代は移り変わる。「失われた20年」と呼ばれる長い不況を経験し、新型コロナという未知のウイルスが世界に広がった。成田市の男声合唱団「北総エコー」の団員たちも、時代の変化にさらされながら活動を模索してきた。
団体は10年ほど前から月1回、老人ホームで慰問公演を行う。施設に入所する団員の友人から頼まれたのがきっかけだった。
ステージで、「ソーラン節」や童謡「里の秋」など、7、8曲を披露する。団員と入所者に年の差はない。最高齢の漆崎公義さん(77)は「昔を懐かしんで、涙を流しながら聴いてくれる。年の近い友人と楽しく過ごす感じですね」と語る。
学生時代は、関西学院大の名門グリークラブに所属し、米国で1965年に行われた第1回世界大学合唱祭に日本代表として参加した経験もある。世界16か国から集まった学生と歌を披露し合った。
定年退職後、妻が認知症で施設に入所し、一人の時間が増えた。2017年に近所で開かれた合唱祭で歌っていた北総エコーの歌を聴き、即入団した。「声を出したくてうずうずしていた。健康のためにもいいんですから」。笑顔で話す。
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活動の幅は広がったが、高齢化に伴い、病気にかかったり、亡くなったりする団員もいる。そのたび担当パートを替えてやりくりする。2002年頃に入団した関隆治さん(66)はトップテノールだったが、バスに移った。「パートの移動は小規模合唱団の宿命で、楽しいところ」と捉える。
北総エコーとは、激務の仕事がなければ出会わなかったかもしれない。ANA成田エアポートサービスに勤務していた2001年9月11日夜、仕事を終えて自宅で晩酌をしていた時だった。高層ビルに飛行機が突っ込む様子がテレビに映し出された。「映画のワンシーンかな」。米国で起きた同時テロだった。
東南アジアから米国に向かう飛行機は、成田空港に緊急着陸する事態に。タクシーに飛び乗り、空港に向かった。人手が足りず、自ら手を振って飛行機を搭乗口に誘導した。その後、空港には早朝から夜まで働き詰めとなった。
仕事に追われ、空港の外の空気を吸いたくなった。そんな時、成田市で活動する男声合唱団の存在を知った。法政大アカデミー合唱団で歌っていた記憶がよみがえり、入団した。「北総エコーで歌うことはちょうどいい息抜き。自分の生きがいになった」
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ここ数年、直面したのが新型コロナだ。初めて経験する事態に団員は困惑した。複数人が集まって話したり、食べたりすることが難しい。大声を出して歌うなど、もってのほかだ。活動を休止せざるを得なかった。
本郷義博さん(73)は、学生時代にバンド経験があり、定年退職後の2004年に北総エコーに入りバリトンを担当。団体の事務も担ってきたが、コロナ禍で歌えず、危機感を募らせた。「このまま終わってしまうのかな」
団員はメールで連絡を取り合い、新型コロナの緊急事態宣言が昨年10月に明けると、練習再開日には、全員が参加した。「絆の深さを感じましたね」。本郷さんはしみじみと語る。
40年という長い年月を経られたのは、「気遣いなしに歌って飲んで話せる間柄」にあったからだ。会費も会則もない自由で緩い関係性。ただ、結成当時から変わらない決めごとが一つだけある。団員の入れ替えはあっても「退団」という言葉は使わない。一緒に歌った仲間は「生涯の友」との思いからだ。歌を通じて集まった団員たち。声が出る限り、ハーモニーを奏で続けるつもりだ。
働き盛り歌って飲んで

昭和時代の終わりは、バブル経済の絶頂で、日本は毎日のようにお祭り騒ぎだった。成田市を拠点とする男声合唱団「北総エコー」は、そんな時代の波に乗るかのように、団員は20人ほどに増えた。
働き盛りの団員たちは、忙しい仕事の疲れも見せずに集い、声を合わせた。「仕事の疲れなんて吹っ飛んだね」。「歌の練習時間より飲み会の時間の方が長かったんだから」。団員は苦笑交じりに振り返る。
中音域のバリトンを担当する坂本典信さん(75)は、北海道美唄市育ち。パソコンがまだ日本に普及する前、NEC(日本電気)に就職し、東南アジアを中心に世界中を飛び回っていた。
1990年頃、母の死をきっかけに成田市に引っ越してきた。仕事も落ち着き、新たな居場所を探していた。高校時代に混声合唱部に所属した経験があり、自宅近くで開かれた「合唱のつどい」をのぞいた。そこで歌っていたのが、北総エコーだった。
1992年の練習見学の日。歌の練習は2時間ほどで終わり、一行が向かった先は居酒屋。1軒目で終わると思いきや、「坂本行くぞ」と2軒目、3軒目とはしご酒。酒のペースも上がり、団員たちは肩を組んで大合唱を始める。坂本さんはその場で入団を決めた。練習後の飲み会は、朝まで続くこともあった。
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昭和から平成に変わった1989年に入団したのが、山田幸司さん(70)だ。成田市で呉服や塩を扱う「山田屋商店」が実家で、東京の大学を卒業後、調査会社などに勤めたが、数年で辞め、成田市役所に入庁した。
市役所は、成田空港の開港に伴い、職員を大量に採用していた時代で、配属先は環境保全課(当時)。空港付近の家に騒音測定器を抱え、訪ねる日々。「音がうるせえ。どうにかしてくれ」。飛行機の騒音にいら立つ市民の矢面に立った。
市役所の合唱団に入っていた時に北総エコーの団員に誘われ、入団した。週1回過ごす時間はかけがえのないものとなった。大きな声で思いっきり歌い、練習後の飲み会でも大騒ぎ。「文句を言われ続けた人生。唯一時間を忘れられるひとときなんです」とこぼす。
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成田市三里塚出身の堀江憲治さん(75)も、別の合唱団から移ってきた一人だ。
合併前の日本製鉄、新日本製鉄に勤め、社内の合唱団で歌った。仕事では2度のオイルショックを乗り越え、中国・上海の鋼鉄製造の中心地、宝山に滞在するなど、技術者として日本の鉄鋼業を支えた。
退職後に地元に戻り、別の合唱団に所属していた2010年頃、合唱連盟の会合で、佐倉高校の同級生で団長の今仲典雄さん(75)と偶然再会した。「一緒に歌おう」と誘われて入団し、低音のバスを担当する。
歌を歌うだけではなく、お酒を飲み交わし、たわいのない話をして時間を共有する。山田さんは語る。「北総エコーは、日常生活の一部ですよ」。団員のかけがえのない「居場所」となり、心のよりどころとなった。
夢の男声合唱団40周年

結成当時から引き継がれる「北総エコー」のワッペン
成田市が拠点の男声合唱団「北総エコー」が、結成40周年の記念コンサートを開いた。出身や職業も異なる団員9人の平均年齢は72歳。成田空港の開港やバブル、その後の長引く不況など戦後日本の歩みを背景に、団員たちはハーモニーを響かせてきた。合唱団の歩みと、団員の人生を追った。
「北総の大地に響け。我がエコー」――。結成当時から続く団歌で幕が上がった40周年のコンサートは、団員の高齢化で1年前倒しし、3月に開催された。約2時間にわたる4部構成のプログラムでは、滝廉太郎作曲の「箱根八里」や「荒城の月」、多田武彦作曲の「紀の国」など、えりすぐりの曲が披露された。
終盤、北総エコーの創立者で、結成当時から団長を務める今仲典雄さん(75)が車椅子で舞台に上がる。4年前に患ったパーキンソン病の影響で、自力で立つのは難しい。体全身を使って鬼気迫るように指揮棒を振る。その姿に感化されるかのように、団員の表情は引き締まる。
超満員の200人以上が詰めかけた会場には終始、重厚で心地のいい音が響き渡り、万雷の拍手とともに幕は下ろされた。
楽屋に戻った団員は、いつものように談笑していた。「立ちっぱなしで、腰が痛いよ」「次は45周年か。もう座って歌うか」「それより全員生きているかわかんないよ」――。長い付き合いだからこそ成り立つ、冗談とも本音とも取れる会話が楽屋裏に花咲いた。団員の1人がポツリとつぶやいた。「この時間が一生続けばいいな」
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北総エコーが結成されたのは、成田空港が開港して5年後の1983年6月。今仲さんが勤務先の三洋電機を辞め、出身地の成田市に戻って楽器店を開いた頃だった。
1970年代前半、高度経済成長期の日本は、「モーレツ社員」と呼ばれたサラリーマンが全国を転々としながら、朝から晩まで働きづめの毎日。今仲さんも工場と自宅を行き来する日々を送った。
15歳の頃、母にアコーディオンを買ってもらって以来、音楽は今仲さんの生活の一部。大学生の時には、男声合唱サークルに入部した。当時、慶応大生で結成された4人組男声コーラスグループ「ダークダックス」が一世を 風靡し、重厚なハーモニーのとりこになっていた。
「いつかは地元で男声合唱団を」。ひそかに抱いてきたそんな夢を脱サラしたことを機に、実現させることにした。
働く男性が集まって歌う合唱団が珍しい時代。集まりやすいように土曜日の夜を練習日とし、年齢や経験を問わなかった。目指したのは、「歌うのが好きな人が集まる居場所」だった。
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最初に声をかけたのが、今仲さんと佐倉高校の同級生の京須和夫さん(75)だった。成田山新勝寺の表参道に店を構える老舗土産店「上総屋」の長男。日本ビクターに勤めていたが、父が亡くなり、店を継ぐために地元に戻ってきていた。
合唱は未経験だったが、社会人時代は、国民的なブームだった「歌声喫茶」に足しげく通い、森山良子の「この広い野原いっぱい」などのフォークソングを聞くのが好きだった。「今仲と一緒なら」と入団した。
結成から1年がたった頃、エスエス製薬に勤めていた洞口靖さん(66)が、転勤で成田市に引っ越してきた。当時27歳。引っ越し当日の夜、新居近くの洋食レストラン「チャップリン」で夕飯を食べていると、視線は1枚のポスターにくぎ付けになった。「男声合唱、団員募集」。そう書かれていた。
全国優勝の経験のある埼玉県立川越高校男声合唱クラブ出身で、歌いたい気持ちを抑えられずにいた。気づいたら電話をかけ、翌週には練習場にいた。
何かに引き寄せられるかのように集まった3人の初期団員。北総エコーは、バブル経済とともに勢いを増し、重厚なハーモニーを地域で響かせていく。
読売新聞オンラインより
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